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信州異次元決戦


第一章 覚醒
第一話 佐藤一志

 ミーン、ミ−ン。蝉達がけたたましくなき続ける真夏の炎天下、佐藤一志(さとうひと し)はハンカチで額の汗をぬぐった。先ほどから拭き続けているためハンカチは汗でずし りと重たくなっている。佐藤は手にもった缶ジュースを一口飲んだ。だいぶ前に買ったそ れはもはやぬるくなってしまい不愉快な甘さが口の中に広がる。
 「ふんっ・・・」
 佐藤は今、長野県岡谷市にある中央本線の岡谷駅にいた。
 「ちっ。まだこないのか電車は」
 電車に向かって毒づいたがくるわけがない。その事が佐藤をいらだたせていた。
 事実、岡谷に到着して二時間にもなろうというのに飯田線の影も形も見えない。確かに 時刻表を調べてこなかった自分が悪いのだが、一日三本という絶望的な数字を目の当たり にするとは思っていなかった。運悪く佐藤が岡谷に到着したときには貴重な昼の一本は無 常にも一時間も前に出発していた。そして駅に降り立った佐藤が見たものは次の電車の到 着時刻4:00という時刻表と誰もいないホームであった。
 「くそっ、さっさときやがれこの赤字路線が!」
 佐藤は再び毒づいた。しかしやはりくるわけもなく、そのことがさらに佐藤をいらいら させる。岡谷には何もない。何もないからいらいらする。そのいらいらを飯田線にぶつけ る。しかし飯田線はこない。そのことがさらに佐藤をいらだたせる。佐藤はさっきからこ の悪循環を何度も繰り返していた。彼がこの真夏の岡谷にいるのは仕事である。より正確 には仕事に行く途中なのである。
 佐藤一志。二十九歳。早稲田大学法学部卒業。大学四年の時に司法試験に合格。弁護士 となる。二十五歳の時、勤めていた弁護士事務所を辞め、その後、大手興信所に再就職。 二十七歳で独立。千葉県船橋市に自宅兼事務所を持つ。
 この男の経歴である。
 佐藤はわずかキャリア四年であったが鋭い洞察力と決断力、実行力で大手興信所に勤め ていた頃から評判はよくかなりの信用を得ていた。とはいえまだまだ駆け出しであり日ご ろはもっぱら浮気調査と迷子のペットの捜索であった。行方不明人捜索。今佐藤が扱って いる依頼である。絶好の海水浴日和の今日、佐藤を真夏の岡谷で立ち往生させている根源 である。
 もともとこの依頼は佐藤のところに直接持ち込まれたわけではない。様々な探偵事務所 を経由し佐藤の前に務めていた興信所に持ち込まれた。しかし、そこでも誰もやりたがら なかったため推薦状つきで佐藤のところにきたのだ。いわば体よく押し付けられた形であ るが推薦状持参で現れた依頼人をその場で追い返すわけにもいかず、話だけでもというこ とになったのである。
 依頼人は行方不明者の母親であった。ひどくやつれているのが印象的で淡々と話す様子 から今まで何度も同じことを喋ってきたのだと佐藤は悟った。
 資料には行方不明者の顔写真と身体的特徴の他に簡単な履歴が添えられてあった。

 『春川美佳(はるかわみか) 当時二十一歳』
 『身長155cm
  ショートヘアで茶色のメッシュ
  視力 右0.3左0.4 コンタクトレンズ使用
 ほっそりした体形
 右目の右側にほくろがある
 (いずれも当時のもの)』
 『千葉県立国府台高校卒業
 国立千葉大学教育学部在学
 2000年度留年
 2001年度休学届提出、受理
 劇団Yに所属』
 『2000年4月10日、長野県伊那市に住む友人を訪ねると言って家を出る。19: 30頃、飯田線伊那市駅に付き友人と合流したという連絡を最後に消息を絶つ。』

 (大手の興信所もはだしで逃げ出すな)
 佐藤の第一印象はそれであった。
 『伊那事件』。今でもその名は人々の脳裏に生々しく焼きついている。
 2000年4月11日午前11:57。長野県上伊那郡南箕輪村において信州大学農学 部を中心とする半径18kmに及ぶ一帯が突如黒い霧に包まれ連絡を絶ち以後現在にいた るまでその全容は解明されず、依然として五千人以上の行方不明者達の所在は手がかりす らなく、黒い霧もまた健在であった。
 当然、これにかかわるすべての事件はいまだ未解決のままであり、また迷宮入り事件を 生み出すパンドラの箱として探偵業界ではひどく嫌われている。だからほとんどの興信所 は伊那という言葉が出てきた時点で調査を終了してしまうのである。
 佐藤がこんな事件を引き受けたのはまったくの偶然であった。推薦状持参で現れた依頼 人をその場で追い返すわけにもいかず、一応型どおりの調査をして終わりにしようと佐藤 は考えていた。たとえ佐藤が素晴らしく正義感あふれる人間であったとしてもそうしたで あろう。それほど『伊那事件』の壁は分厚く高かったのである。事実、佐藤はあまり期待 しないようにと依頼人には言ってあった。

 依頼を引き受けてから三日後、別の事件で梨田という情報屋の男に会った際、妙な噂を 聞いたのである。
 新宿近郊の居酒屋の中で佐藤は梨田と会った。いつも梨田が情報の取引に使用する場所 である。取引後、二人とも久々だったのそのまま一緒に飲んでいたのだ。
 「妙な話を聞きましてね・・・」
 酒の席で梨田はこう切り出した。
 「何だ?」
 佐藤は何の気なしに聞き流していた。
 「いや、旦那だからお教えするんですよ」
 佐藤は苦笑しながら熱燗をもう一本注文した。
 「いや、すいませんね旦那」
 梨田は佐藤を旦那と呼び敬語を使う。実際には佐藤のほうがずっと年下なのだが、以前 に佐藤が梨田の危機を助けたことがあった。それ以来、梨田はこう呼び続けている。
 「いや旦那、最近伊那事件にかかわっているそうですねぇ」
 「耳が早いな」
 「いや何、狭い業界ですから」
 「それで?」
 佐藤は自分のお猪口に酒を注ぐと梨田のものにも注いだ。
 「いやすみません旦那」
 「で、伊那事件がどうしたんだ」
 そこで梨田は声をひそめた。
 「どこまで進んでます?」
 佐藤は苦笑しながら、
 「それはいえないさ。業務上の秘密だ」
 「でしょうがね、まあさすがの佐藤さんでも形どうりの調査で済まそうと思ってらっしゃ るでしょう」
 梨田は時々容赦なく核心をつく。佐藤はさらりと逃げをうった。
 「で、話というのは何なんだよ?」
 梨田はそれ以上、追求はせずに噂を話し出した。
 「ええ、実は伊那に街があるっていう話なんですよ」
 佐藤は一瞬耳を疑った。
 「はぁ?」
 「いや、だから伊那に街が・・・」
 「ガセじゃないのか?」
 佐藤の疑問ももっともである。『伊那事件』後、黒い霧を中心に南箕輪村と伊那市は自 衛隊によって完全に封鎖され、航空機の航路からもはずされていた。
 「実は私の知り合いに電力消費量を専門に調べているやつがいるんですがね。電力消費 量のおかしいところは必ずなんかありますからね。大きな地下室とか怪しげな実験施設と か。」
 「ふーん」
 道理である。佐藤は笑いを止めた。梨田は続けた。 「そいつがまた暇なやつで、東海地方一帯の電力消費量を調査したらしいんですよ。で、 それぞれ消費される電力と供給される電力を照らし合わせていった結果、どうしても計算 が合わなかったんだそうです。それも大都市まるまる一個分の量が」
 「そいつは確かに妙だな」
 「でしょう。でそいつが言うには消費の計算に入れてない地域が一個あったんですよ」
 佐藤は得心した。
 「それが伊那市か」
 
 そして佐藤は今、伊那市へ向かうため飯田線の乗り入れている岡谷駅にいた。
 「生きていれば31か・・・」
 列車に悪態をつくのに飽きた佐藤はホームの屋根の影に入り再び資料に目を通していた。 顔写真を取り出し自らの経験による修正を加える。美人というよりかわいいOLというよう な顔になる。続いて経歴に目を通す。もっとも何度も繰り返し見ているためそのようなこ とはもうすべて頭の中に入っている。
 ようやく日が翳り始め少し風も出てきたのでさっきよりは格段にすごしやすくなってい た。
 佐藤は時計を見た。まだ電車の時間ではない。ふと壁のポスターに目をやった。
 『あなたひかりあれ』、『この荒廃した世界を救う光の使途』などと書かれ派手なポス ターが張ってあった。
 それはここ数年で急速に信者を増やしつつある『光教』のポスターであった。教義はい たって単純で『超能力を持つものは神の使徒となり世界滅亡の際に救済され新たなる世界 の創設者となる』というものであった。また光教を母体とする政治結社光党がこの前の参 議院選挙で二十七議席を獲得しちょっとしたニュースになっていたことは記憶に新しい。
 その時、佐藤の視界に何かが入ってきた。その二両編成のローカル線はゆっくりとホー ムに進入しやがて停車した。飯田線である。佐藤は腕時計を見た。3:30を少し回った ぐらいだろうか。ごくわずかの乗客と一人の運転手を吐き出すとその列車はその姿を静か に横たえている。乗降時の喧騒もあっという間に消え去り岡谷駅は再び静寂に包まれた。
 そして佐藤は空になったジュースの缶をゴミ箱に放り込むと飯田線へと乗り込んだ。



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